101本目のダッシュ(3)

社会整理士育成協会の代表を
務めております鈴木健司でございます。

本日は、自分史の第3弾。
今回も包み隠さず、お伝えしようと思います。

ズル休みばかりしていた私を母が怒り、
父に報告されるのが恐くて、
泣く泣く野球の練習に久しぶりに行きました。

そしたら、まさかその日が
私の人生を変える日になるとは・・・。

というところまでお話しました。


 

超久しぶりに練習参加した日が、
ピッチャー(投手)のテストだったのです。
10球中に何球ストライクが入るかというもので、
私は6球でした。1番多くストライクを取ったのが、
7球の人だったのを覚えております。

その日から、
ピッチャーとして練習することになったのです。

運命でしょうか?
練習サボりの私がチャンスをつかんだのです。

与えられたチャンスは逃さない

って11歳ながら思っていたのを覚えています。
しかし、こんなことって
神は許してくれるのでしょうか?

それから、サボることなく
練習に行くようになりました。
風邪も引くことが減り、体も強くなりました。
小学生の頃は、ピッチャーでも2番手で、
控え選手として、サード(三塁手)か
ファースト(一塁手)を守っていました。

当時の想い出は、
(1) サードで100本ノックを受けたこと。
(2) それから、最後の大会で優勝したこと。
(3) 大好きな女子ができたこと。

優勝というものは、
当たり前のことですが、勝った者しか
その感動を味わうことができません。
その経験を12歳で経験させて頂けました。

また、その感動を味わいたいと思い、
友達も引き続き、野球をするということで、
中学に入っても野球部に入部しました。

母には、感謝しています。
野球道から踏み外した私を、
戻してくれたのです。
スイッチを2番目に押してくれたのは、
まぎれもなく母です。

ところが、当時の私は、
ちょっとダメな人間でした。
練習は、休むことなく参加していたのですが、
監督、そして先輩にも嫌われてしまい、
選手としては見てもらえませんでした。

この時の想い出は、
(1) 1年の時、野球部なのにバスケットソックスを
 履いていて、先輩女子から
 「ナイキー」と呼ばれていた。
(2) 担任の先生が、教卓に潜って泣いていた。
(3) 禁煙パイポと賭け事が流行っていた。
(4) 先輩から嫌われていた(自分が悪い)
(5) おばちゃん(享年52歳)が亡くなった。
※祖父母・父母・私の5人家族

1年生の時、突然先生が、
「おばあちゃんが倒れたから帰りなさい」
と伝えにきました。

大好きだったおばあちゃんが、
くも膜下出血で意識不明になったのです。
おばあちゃんとは、いっぱい口ゲンカをしました。
でも尊敬もしていました。
根性があり、頑張り屋さんだったのです。

おばあちゃんが作る芋パンやフナの山椒煮、
グジのお吸い物は、最高に美味しかった。
でも、もう2度と食べられません。
怪我した時に、アロエと小麦粉で
塗り薬を作ってくれたのもすごく覚えております。

私の母親は、

「おばあちゃん(義母)に料理を教えてもらっておけば良かった!」


と未だに後悔をしております。
これも生前整理です。
受け継ぐとはこういうことなのです。

はじめての葬儀では位牌を持ちました。
子どもは、いとこも含め5人。
全員、初めて「死」というものを知りました。

私は、私なりに頑張って
おばあちゃんに見てもらおうと
野球を頑張ろうと思いました。

野球というのは、夏の大会が終わると、
3年生は終わり、1年と2年だけになります。

すると、またやってくるのです。

「どこのポジションが希望か?」

そこで、私はまたもやピッチャーを選択します。

ここで、私の投手人生が劇的に変わることになるのです。

(4)へつづく