社会整理士育成協会の代表を
務めております鈴木健司でございます。
本日は、自分史の第4弾。
今回も包み隠さず、お伝えしようと思います。
52歳という若さで、
くも膜下出血により亡くなった
大好きなおばあちゃんのためにも
野球を頑張ろうと思いました。
3年生が最後の夏の大会を終わると、
新チーム結成のため、
希望ポジションを監督に伝えます。
もちろん、私は小学生の時と同じく、
ピッチャーを選択しました。
ここで、私の投手人生が
劇的に変わることになるのです。
というところまでお話しました。
「アンダースローで投げろ!」
私は、アンダースローは、
薄っすらと聞いたことはあったのですが、
下手投げという程度しか知りませんでした。
当時の阪神タイガースでは、小林投手。
阪急ブレーブスの山田久志投手。
「あんな感じで投げたらいいんやぁ」
という感じでした。
ところが監督。
投げ方を一切教えてくれません。
今思うと、放置されてたのかなぁと思いました。
※違ったらごめんなさい
最初は、投げてもキャッチャーの所に行きません。
暴投は当たり前、ガラスは割る。という始末。
しかし、何も考えず、
ただひたすら、練習していると、
少しずつですが、ストライクが入るようになりました。
カーブも見よう見まねですが、曲がっていました。
ある日の事です。監督から、
「鈴木、投げて見ろ!」
中学に入り始めて、
バッター相手に投げさせてもらえました。
これは、私にとって大チャンスです。
ふと!小学生の時、チャンスを掴んだ
あの日を思い出しました。
すると、みんな打てなかったのです。
※記憶によると・・・。
アンダースローというのは、
ボールの軌道が、ナチュラルに浮き上がったり、
沈んだりするので打ちにくいそうです。
カーブも横へ大きく曲がるので、
上投げ(オーバースロー)では見れない軌道です。
試合でも結果を残した私は、
その後は、背番号1を付け、
エースピッチャーとして歩みました。
あれだけ、放置されていたのに、
「世の中は、結果なんだなぁと思いましたね」
チャンスを生かす!
ビジネスでいうニッチな世界に飛び込む!
なんとなくですが、
成功するために必要なものを感じていました。
もちろんニッチな世界なんて言う言葉を知る由もなく、
自然に?監督が導いてくださったのに感謝でした。
※この場合、
みんなが投げるオーバースローがマスとしたら、
ほとんどいないアンダースローという投法がニッチ。
この監督が、
私の人生のスイッチを切り替えた3人目です。
運・結果・正しい努力・ニッチ
でも私は、努力だけは人一倍していました。
そこだけは、負けなかったと思います。
そして、中学での野球成績は、
優勝経験はありませんでしたが、
滋賀県でただ一人のアンダースロー投手でした。
ノーヒットノーランも数回、
完全試合も達成しました。
次は、近くで野球が強い高校へ進学。
しかし、すごく嫌な高校でした。
なぜ、嫌な高校なのか?
それは、中学の時の恐い先輩が
たくさんいたからです。
当時、私の素行が悪く嫌われていました。
自分が悪いので、いじめとは思いませんでしたが、
思い出すと辛いものです。
高校、ドキドキの先輩と再開
いじめられるのかなぁと
正直不安でいっぱいでした。
野球と特別進学クラス・いじめに対する不安。
次回は、すっごく不安な高校編です。